Hさん(仮名・56歳男性・千葉県・嘱託勤務)から届いた話。
和牛のレンタルオーナー制度に、800万円。会社は、株式会社安愚楽牧場(あぐらぼくじょう)。1981年に栃木県那須を拠点に創業、2011年8月に経営破綻──負債総額約4,300億円、被害者およそ7万3,000人と報じられた、戦後最大級の消費者被害事案。
2014年以降の刑事手続きで、代表者ら役員が詐欺容疑で逮捕・起訴。2017年に代表者への有罪判決が報じられている。
※本記事はHさんへの取材を中心に、社名・経営破綻・刑事事件の事実関係を当時の経済紙・大手新聞社の報道に基づき補足しています。
54歳で早期退職、退職金3,000万円から始まった迷い
2010年、Hさんは54歳でIT会社を早期退職。退職金は約3,000万円。子はすでに独立、妻と二人暮らし。
「現役のうちにある程度の資金ができたら、運用で残りの人生を組み立てる──そういうイメージは、現役の頃から持っていたんです」
後の取材で、Hさんはそう振り返った。退職翌年、近所の書店で手に取った経済誌が、最初のきっかけだった。
経済誌の特集、那須の牧場見学ツアー
経済誌の特集テーマは、「中高年の資産運用」。記事の一つに、安愚楽牧場の和牛オーナー制度が紹介されていた。「実物資産で安定運用」「現物の和牛を見学可能」──そんなキャッチが、Hさんの目に止まる。
本社主催の牧場見学ツアーに、妻と二人で申し込む。
「広い牧場、実際に動いている和牛、運営担当者の丁寧な説明。あれを見て、写真と数字だけの投資商品とは違うな、と。実物がある安心感って、強いんです」
1口100万円、8口で800万円
制度の仕組みは、こう説明された。
顧客が1口あたり数十万円〜数百万円で『仔牛』のオーナーになる。安愚楽牧場が育成と販売を代行し、3〜4年後に売却益を配当として顧客に支払う。
Hさんに勧められたのは、1口100万円のプラン。担当者は何度も繰り返した。
「銀行の定期預金と比べてください」「中高年の資産運用として、これほど現物の見える商品は他にありません」
Hさんは、退職金から800万円を切り出した。8口、現物の和牛のオーナーとして契約。妻には、「経済誌で見つけた、現物の和牛投資」とだけ伝えた。
毎年の配当、約8〜10%の入金が続いた
契約から1年後、Hさんの口座に約70万円。配当の名目だった。
「説明通りだ、と。あのときの安心感は、今でも覚えています」
翌年も、その翌年も、同じレベルの入金。Hさんは追加購入を検討し始めていた頃、ニュースで、安愚楽牧場の経営状態を疑問視する記事を目にする。
2011年8月、民事再生申立の見出し
2011年8月、安愚楽牧場が東京地方裁判所に民事再生を申立、その後、破産手続きに移行。
負債総額は約4,300億円超、被害者およそ7万3,000人──戦後最大級と報じられた数字を、Hさんはネットニュースで読んだ。
「最初は、自分の契約と関係のない別の話だと思いました。社名が同じだと気付いて、PCの画面を二度見した。あの瞬間、退職金の運用計画が、根本から崩れたのを実感しました」
『仔牛の頭数』が、契約と一致していなかった
破綻後の調査で、契約上の『仔牛の頭数』が実際の飼育頭数を大幅に上回っていたこと、配当原資の大半が新規顧客の入金で賄われていた構造、が報じられた。
「あの牧場見学で見た和牛は、本物だった。でも、契約書に書かれていた頭数とは、まったく一致していなかった──そう知って、現物を見せられた意味が、根本から変わりました」
2017年、代表者への有罪判決
2014年以降、代表者ら役員が詐欺容疑で逮捕・起訴。2017年に代表者への懲役判決が報じられた。
「ニュースを見ても、何かが戻ってくるわけじゃない。ただ、自分が騙されたという事実が、刑事手続きで認定された──それが、心の整理には、少しだけなりました」
退職金の4分の1を失って、嘱託で働き続ける
800万円は、Hさんの退職金の約27%。破産配当を待つ間も、生活設計の組み直しは必要だった。
選んだ道は、地元の中小企業での嘱託勤務。週3日、月収は現役時代の半分以下。それでも、年金開始まで現役期間を伸ばすことで、損失分を緩和する形になった。
「現役時代に800万円を貯めるのに、何年かかったか。それと同じ年月分が、退職後にやり直しで延びた──そう考えると、まあ、これも勉強代だと、ようやく思えるようになりました」
取材の最後に、Hさんが言ったこと
「あの牧場見学で見た風景は、本物でした。本物の和牛、本物の牧場、本物の従業員。でも、契約書の中身は、まったく別の話だった。これから退職金を運用しようとしている同年代の人に、伝えたい。『現物を見せられた』ことと、『契約の整合性が取れている』ことは、別物です」
振り返り:3つの教訓
1. 『現物』を見せる演出と『契約の中身』は、別物。牧場見学・工場見学・倉庫見学などの『信頼演出』があっても、契約書面の数値整合性は別途確認する。Hさんの場合、契約書の頭数を独立に検証する手段がなかった点が、構造的な弱点だった。
2. 配当が継続している期間は、構造的にむしろ警戒すべき。新規顧客からの入金で旧顧客に配当する構造は、外形上は『順調』に見える期間が必ずある。Hさんの3年間の安定配当は、結果として、追加購入の検討を促す機能を持っていた。
3. 退職金の運用は、複数の独立した運用先に分散する。1社あたりの預け額を退職金総額の10%以内に抑えるのが、最低限の基本ルール。Hさんの800万円は退職金の約27%で、集中度が高かった。